【聖書箇所】
「Ⅰヨハ3:8 罪を犯している者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現れたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。
「罪を犯している者は、悪魔から出た者です。」とありますが、とても厳しい御言葉ですがここで、私は、罪を犯しません。と言う方はいますか?私は、罪を犯しませんと言う人はいませんね。では、聖書で言っている罪とはどのようなものでしょうか?御言葉から見ていきたいと思います。
「ヤコブ4:17 こういうわけで、なすべき正しいことを知っていながら行わないなら、それはその人の罪です。」
ここでも、とても厳しい御言葉ですが、自分が行わなければならない正しいことを行わないのは、罪ですと言っています。聖書で言っている罪とは、何か罪を犯す事ばかりではなく、正しい事を行わない事が罪だと言っています。正しい事を行わない事が罪だとしたら、私もいつも罪を犯す者です。
なぜ正しい事を行わない事が罪だと言うと、初めに神は人間を良い行いに歩む様にキリスト・イエスによって、神の作品として作られました。そして、その歩むべき良い行いをもあらかじめ備えて下さいました。神様は人間を良い行いをする為に作られ、その行いも備えて下さったにもかかわらず神に背き良い行いに歩まない事は、神に対する背きの罪となり、同じ様に正しい事を行わない事は背きの罪と言う事です。
ここで、示されている正しい事を行わないと言う罪のほかに、罪を犯すと言う罪があります。罪とは、人の内にある欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されて罪を犯すと聖書は教えています。欲に引かれて、おびき寄せられたり、誘惑されると言うのは悪魔が人間を滅びへと導く策略です。この事によって、欲が罪を生みその罪が熟すと死を生みます。罪の結果が死であると言う事です。しかし、少しばかりの救いが有ります。それは、「罪が熟すると死を生みます。」と聖書は教えています。ここで、「罪を犯すと死です。」とは言っていません。罪が熟すと言っています。熟すとは、果実が熟すのに時間がかかる様に、時間をかけて罪を犯し続けるなら死を生みますよと言っています。罪を犯し続けるならと言う事です。時間については、神の領域なので、どのくらい罪を犯し続けるなら死を招くかは、私達には分かりませんので、人間の弱さの故に罪を犯したとしても、罪を犯し続けてはいけません。
すぐに悔い改めて方向を変えて神様の願う方向に歩みを変えましょう。悔い改めるとは、神の願う方向に向かうと言う事です。
聖書の中にキリストの使徒である、パウロという人物が出てきますが、信仰熱心で伝道に燃え、キリスト命と言うほどのパウロでさえも、罪に悩まされている事が聖書に書いてあります。
私達クリスチャンは罪から離れた者であり、罪に死んだ者です。なぜなら、8節にある様に「神の子が現れたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。」神の子イエス・キリストがこの地上に誕生されたのは、悪魔の仕業を打ち壊すためです。悪魔は人間の欲をよく知っていて、欲を引き寄せて、おびき寄せたり、誘惑したりしますが神の子イエス・キリストが悪魔の全ての罠から、私達を守って下さいます。
悪魔は人間の欲をよく知っていて、欲を引き寄せて、おびき寄せたり、誘惑したりしますが神の子イエス・キリストが悪魔の全ての罠から、私達を守って助け出して下さり、天の御国に導き、救いへと導いて下さいます。
初めに神は人間を良い行いに歩む様にキリスト・イエスによって、神の作品として作られました。神様は人間を良い行いをする為に作られ、その行いも備えて下さったにもかかわらず神に背き良い行いに歩まない事は、神に対する背きの罪となります。
ヨハネは、罪についてハッキリと示しています。「罪を犯している者は、悪魔から出た者です。」と言っています。ここで言っている罪を犯している者とは、罪を犯し続けている者の事ですが、そう言う者は悪魔から出たものですとハッキリ言っています。
神様は、とてもやさしい方ですが、罪にはとても厳しい方です。私達は、神を愛して、神の命令を守る事で、罪の道を歩まず、正しい行いに歩む事で神の内とどまり神様も私達の内にとどまってくださいます。それによって私達は、神様に守られて、神様の愛の中にやさしさを感じることが出来るのではないかと言う事を学びました。