【聖書箇所】 コリント人への手紙第一 6章 17~20節
「6:17 しかし、主と交われば、一つ霊となるのです。
6:18 不品行を避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、不品行を行う者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。
6:19 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。」
17節に、「主と交われば、一つ霊となるのです。」とありますがどういう事かと言うと、私たちキリストを信じる者は、その保証として聖霊が私たちの内に内住して下さっています。聖霊が私たちの内側にキリストの代わりに助け主として、住んでいるのです。ですから、私たちの体は神の宮と言う事です。私たちが主と交わるとき、霊と霊の交わりとなり主と交わったとき私たちは主と一つの霊となる事が出来るのです。18節では、「不品行を避けなさい。」とパウロが言っているのは、コリントの教会ではキリスト者と言いながら、昔ながらの女神アフロディトの神殿で行われている神殿娼婦との交わりを行うものがいる事についてパウロが不品行を避けるようにと言っています。また、人が犯す罪はすべて、からだの外のものであるのに比べて不品行は遊女と交わることにより、自分のからだに対して罪を犯す事になると言う事です。主と交われば、一つ霊となり、内側の聖霊が喜びます。反対に遊女と交われば、聖霊の宮である体を汚し聖霊が悲しむ事になるとパウロは言っています。
私達は、イエス・キリストを神の御子と信じ、私達の罪を赦すため十字架に付けられ死なれた事、死を打ち破り三日目に復活され今も天で生きておられる事を信じ聖霊を証印として与えられました。私達の内に住まわれる聖霊を悲しませてはいけません。
19節では私たちの体について説明しています。私たちの体は、神様がイエス・キリストを信じる私たちに、助け主として与えて下さった聖霊の宮です。私たちのうちに聖霊様が内住して下さっています。
私たちの体は聖い神の宮です。聖い神の宮を悪い思い、憎しみ、嫉妬、許せない思い、囚われ事、その他の悪い物で汚してはなりません。
それは、自分自身が苦しくなり、やがては病気になってしまうからです。
聖霊がその人の内にとどまっている人は、罪を犯す事が出来ないのです。出来ない事をしているからこそ苦しくなりやがて、病気になってしまうのです。
父が愛する子を懲らしめるのは、決して病気にさせる為では有りません。悔い改めて、喜びにあふれた信仰生活を、送ってほしいからなのです。
また19節には、「あなたがたは、もはや自分自身のものではない、ことを、知らないのですか」と言っています。私たちの体は自分自身のものでは無く御霊に属する神の宮と言う事です。もはや自分自身が生きているにではなく、御霊によって生かされているのです。御霊によって生きるとはどう生きればよいでしょうか?
聖霊の宮として聖霊によっていきるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。御霊に導かれて進むとは、聖霊が私たち一人一人に何が良いことで何が悪いことなのかを示してくださいます。聖霊が喜ぶことを選択し、聖霊が悲しむこと選択しない信仰生活が聖霊に導かれながら歩む信仰生活です。
私たちは、よく使う言葉の中に「証しにならないよね」と言う言葉がありますが、この言葉は、とっても良い言葉です。どういう風に良いのかと言うと、私たちがキリストの証し人として生きる時、行動の判断をするうえで、証しになる行動なのか、証しにならない行動なのかは、とても重要です。ここで言っている「証し」とは、私達が生活する中で、クリスチャンとして、キリストに従う者としての行動です。私達の行動は、キリストを証ししています。私達の周りの人たちは、私達を通してキリストを見ているのです。証しになる行動なのか、証しにならない行動なのか、これらの答えは、聖霊が教えてくださいます。聖霊に導かれながら歩む時選択はおのずと決まってきます。
20節では、私たちは、神様によって買い取られたもので、神様は、私たちのために、ご自身の血を持って代価を払ってまで私たちを買い取って下さいました。もはや自分自身の体ではなく、神様のものです。私たちは、神に属するもであるならば、神の栄光を現さなければいけないと言う事です。
今日の御言葉を通して神様が望んでおられるのは、自分自身の体を聖い神の宮として、悪いもので汚さない事、内住される聖霊の導きによって、聖霊の喜ぶ事を選択する事、その結果として、聖霊の実を結ぶ信仰生活を送る事です。その事が、クリスチャンとして、キリストに従う者として、キリストを証しする事になるのです。
神様は、愛する兄姉たちが聖霊の実を結んで祝福されて心の内側から喜びにあふれた信仰生活を送る事を望んでいる事を学びました。