【聖書箇所】
「ユダ1:8 それなのに、この人たちもまた同じように、夢見る者であり、肉体を汚し、権威ある者を軽んじ、栄えある者をそしっています。
1:9 御使いのかしらミカエルは、モーセのからだについて、悪魔と論じ、言い争ったとき、あえて相手をののしり、さばくようなことはせず、「主があなたを戒めてくださるように」と言いました。
1:10 しかし、この人たちは、自分には理解もできないことをそしり、わきまえのない動物のように、本能によって知るような事がらの中で滅びるのです。」
このユダの手紙は、イエス様の兄弟でヤコブの弟のユダが書いた手紙です。このユダはイエス様がこの地上で福音を宣べ伝えていた時はまだ、キリストの弟子ではありませんでしたが、イエス様が十字架に掛かられた後でキリストの弟子となったので、12使徒ではありませんでした。聖書には、ユダと言う名前が7人出て来ます。一人目は、ユダの手紙の著者であるイエス様の兄弟であり12弟子のヤコブの弟であるユダ、二人目は、ルカの福音書に書かれているマリヤの夫ヨセフの系図に出てくるヨセフの子のユダ、この手紙を書いたユダも、ヨセフの子のユダですが年代はイスラエルの民の捕囚以前の祖先の一人です。三人目は、ヤコブの子のユダで12弟子の一人のタダイノ事です。四人目は、ガリラヤのユダで紀元6世紀ころ住民登録の時、ローマに対して反乱を起こして殺されたユダ、五人目は、パウロがダマスコでイエス様によって、目が見えなくされた時、バルナバによって目が開かれましたが、その時に泊った家の主人のユダ、六番目は、パウロやバルナバと一緒にアンテオケの教会に遣わされたバルサバと呼ばれるユダ、七番目は、12使徒でイエス様を銀貨30枚で裏切ったイスカリオテのユダ、と言う事でユダについてのミニ知識でした。
では、本題に戻りますが8節で「それなのに、この人たちもまた同じように、」とありますが、それなのにとは、過去の神様に背いた者達がどの様になったかを三つの例を挙げて説明しています。一つ目は、神がイスラエルの民をエジプトの奴隷状態から救い出し、祝福のカナンの地へ導いている時イスラエルの民は荒野で神に反逆し十度も神を試みたので、イスラエルの民が滅ぼされた事、二つ目は、御使いとしての、おるべき領域を守らず高ぶりと不従順のゆえに大いなる日のさばきの為に、永遠の束縛をもって、暗やみの下に閉じ込められた御使いたちの事、三つ目は、ソドムとゴモラとその周辺の町々が好色にふけり、不自然な肉欲を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受けて、見せしめにされた事、これらの事は、神に背いた者達の終わりには、永遠の火の刑罰が用意されている事を語っています。「それなのに、この人たちもまた同じように、夢見る者であり、肉体を汚し、権威ある者を軽んじ、栄えある者をそしっています。」
この人達とは、ひそかに忍び込んできた異端の教えを持ち込もうとしている者達の事で、夢見る者であり、自分の身を汚し、権威あるイエス・キリストを軽んじ、栄ある御使いをそしる者達の事を言っています。
9節のこの場面は、聖書には出てきませんが旧約偽点と言う書物が有るのですがその中の「モーセの昇天」に書かれている一場面です。モーセが約束の地カナンを望む、モアブの地で120歳の生涯を終えられた時、神は天使ミカエルを遣わしてモーセを埋葬する様に命じられました。その時、悪魔はモーセが過去に殺人の罪を犯した事を取り上げてモーセの死体を、引き渡すように要求してきたので、ミカエルは悪魔と論じ、言い争いました。しかしミカエルは、悪に悪で対抗しませんでした。「主があなたを戒めてくださるように」と言って主に委ねました。悪魔は、私達の犯した罪を覚えています。私達の行動や態度や言動を、神様は見ていますが、同時に、悪魔も見ています。もし、私達が罪を犯したとしたら、悪魔は、その罪を指摘して、攻撃してきます。その罪を足代にして攻撃してきます。例えば「あんな事して、それでもクリスチャンと言えるのか?」とか「お前はクリスチャンとして、失格だ」とか「神はお前の事を、もうみはなしている。」と言う様に攻撃してきます。ですから、罪を悔い改めて悪魔の足代を取り除くことが大事な事です。悪魔に攻撃の機会を与えては、いけません。私達もミカエルにならって、悪に悪で対抗せずに相手をののしったり、裁いたりしないで、主に委ねる事を、選び取って行きましょう。
10節では、教会にひそかに忍び込んだ不敬虔な滅びる者達は、「自分には理解もできないことをそしります。」なぜなら、この不敬虔な滅びる者達は、御霊をもっていないので、霊的真理を理解する事は出来ないのです。ですから、本能にまかせて
動物のような、わきまえの無い行動をして、滅びを招くのです。この初代教会の一世紀の時代にすでに、偽教師は存在していました。それから、約2000年後の、今の時代偽教師は、どの様に存在しているでしょうか?今の時代ますます異端ははびこっています。今も悪魔は、教会の内側から滅ぼそうと力を拡大しています。19世紀まで守られてきた事柄も、20世紀に入り巧妙に変えられ御言葉が曲げられてきています。一見良い事のように見せかけながら変えられてきています。私達クリスチャンは、御霊によって神の真理を理解してしっかりとした、御言葉の理解と神の霊的真理からそれる事の無い信仰の土台を築く必要が有ります。異端とされていない普通のキリスト教の教会の中からも、ひそかに異端の教えが忍び込んでいます。
御霊は、目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものを理解させて下さいます。御霊はすべての事を探り、神様の深い思いにまで理解させて下さいます。神様は、御霊を通して人の心を知って下さり人は、御霊を通して神の御心を理解することが出来るのです。
神の御心を御霊によって理解し私達の願いを御霊によって神に知っていただく事が信仰の基本である事を今日の御言葉から学びました。御霊によって私達は、人知をはるかに超えた高さ、広さ、長さの神の大きな愛を知りました。神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。御子を信じる者には、救われている証印として御霊が与えられています。御霊によって生きる人生は幸せそのものです。御霊によって生きる人とは、神に従って生きる人で、神の御言葉に従って生きる人の事です。聖書の神の御言葉は、人間を造った神様が人間が幸せに生きるための方法を教える、取扱説明書です。人間の取扱説明書である聖書に従って注意事項を守り正しい動作を行う事で、幸せに向かって行く事を学びました。