【聖書箇所】
ロマ 4:4 働く者の場合に、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。
4:5 何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。
4:6 ダビデもまた、行いとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。
4:7 「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。
4:8 主が罪を認めない人は幸いである。」
【抜粋】
4節では、「働く者の場合に、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。」とありますが、仕事を与えられている事は神の恵みですが、労働に対しての報酬は恵ではなく、当然支払われるべきものです。
人は労働をして報酬として賃金を得て、生活費として生計を立てています。しかし、労働をしても報酬として賃金をもらえなかったらどうするでしょうか?当然支払うべき金額を雇い主に請求するでしょう。もし請求してももらえなかったら労働組合や裁判所に訴える事でしょう。では、雇い主側から労働者を見ていきたいと思います。よく働いてくれた労働者には、報酬として賃金を払うのは雇い主として当然の義務ですね。
では、いつも雇い主に逆らって言う事を聞かないでサボってばかりいる悪い労働者が居たとしたらどうでしょうか。労働に対しての報酬として賃金は支払われるのですから、労働しない者は悪い労働者として解雇されるでしょう。もし、この労働をしない労働者に賃金を払うとしたら、それは恵そのものだと言う事です。この悪い労働者を、よくおく覚えといてください。後で出てきます。
次に、5節で「何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。」とありますが、この5節の御言葉は、聖書の中の最大の恵みと言っても、過言ではありません。何の行いも無しにただ恵みにより、イエス・キリストを神の御子と信じるだけで、義と認められ罪赦される事が私達にとって最大の恵みです。また、この御言葉の中に、信仰義認の中心的な教えがあります。信仰義認とは、信じる信仰によって、義と認められると言う事で「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われる」と言う事です。
られ、口で告白して救われるのです。」
人が罪赦されて、救われる為には義と認められる事と口で告白する事で救われると書いてあります。救われる為にはまずは、義と認められる事ですね。その事が5節に書いてあります。「何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。」
不敬虔な者を義と認めてくださる方とは神の御子であるイエス・キリストのことです。何の働きもない者、不敬虔な者とは、私達です。先程登場した、いつも雇い主に逆らって言う事を聞かないでサボってばかりいる悪い労働者こそ私達のことなのです。創り主に逆らって言う事を聞かないで何の働きも無い私達がただ、イエス・キリストを神の御子と信じるだけで義と認められるのです。そして、その事を口で告白するだけで、救われるのです。これが、最大の恵みです。
恵みとは、ただ受けるものであって、働きによって得るものではありません。
ダビデも何の行いも無いのに、義と認められる事が、いかに幸いな事かと言っています。この引用された御言葉の場面はダビデが罪を隠して黙っていた時は、一日中うめいて疲れ果てていましたが、罪を告白してそむきの罪を赦された幸いを表現している所です。神にそむいたその、そむきが赦され、罪が覆われて、神様が私達の罪を知らないと言って下さる事は幸いな事です。主が罪を認めない人とは神様が、その人の中に、罪に当たる所が認められないと言う事です。
神様がその人を義と認めると言う事です。人が救われる為には義と認められる事が大事な事です。
人が救われるとはどんなに恵みがあるでしょうか?
全ての人はアダムが神に背いた背きの罪をもって生まれてきます。このもともと持っている罪を原罪と言います。救われる為には、この罪を赦してもらう必要があります。この罪を贖うためにイエス・キリストは神であるのに人としてのこの地上に自ら十字架に掛かる為に来られました。イエス様が私達の罪を背負って私達の身代わりになって十字架で死なれ、死んだだけでなく死を打ち破り3日目に蘇られて、天で今も生きて働かれています。イエス様が身代わりになって下さった事により、私達はイエス様を神の御子と信じるだけで罪赦され、口で告白する事で救われます。
神様は、全ての人を愛しています。救われる為に必要な全ての事は、イエス様が既に完了されました。鞭打たれ、十字架で私達の罪の為に死なれ、黄泉に下り死と戦い死に勝利され3日目に蘇られ、天に昇られ父の右の座に座しておられます。
救われる為に必要な事は、全てイエス様がすでに、完了されています。私達はただ信じるだけで、救われるのです。これほどの恵みがどこにあるでしょうか?
これほど神に愛され、これほど恵みを頂いている私達は、信仰生活の中で神様を愛して神の命令を守りましょう。その事によって千代までも続く恵みを頂ける幸いを学びました。