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  • 阿部陽二

今週のメッセージを通して神様が教えて下さった事無題のブログ記事


【抜粋】

*【聖書箇所】 

「マタ6:12 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。

6:13 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕

6:14 もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。

6:15 しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。」

この部分は主の祈りの箇所です。イエス様が弟子たちに祈り方を教えているところですが、「私達の負いめをお赦し下さい。」とありますが、負い目とは、「罪の意識」「罪悪感」「自責の念」「後ろめたさ」など25以上の意味が有りますが聖書では罪を表しています。主の祈りには、教派ごとに、いくつかの主の祈りが有りますが、内容はほぼ一緒ですが、ほとんどが負い目と訳さないで罪と訳しています。ですから、私達の罪を赦してくださいと言う事です。次に、「私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」とありますが、私たちも、私たちに罪のある人たちを赦しました。と言う事です。ここには「赦しました。」と有ります。これは過去形の言葉ですね。弟子たちはすでに赦しているのです。赦さない思いを持っていた弟子はいなかったのです。ここにイエス・キリストに従う者は赦さない思いを持っていないと言う事がわかります。 新約聖書では赦しに対して神に赦された者は自分に対する隣人の罪を赦さなければならないということがわかります。イエス様が私達の罪を赦してくださったのだから,私達も私達に罪がある人達を赦さなければならないと言う事です。そうしなければ、私達の罪が赦されないからです。私たちキリストを信じる者も互いに赦し合うことが求められます。しかし他人を赦したからといって何の功績にもなりません。なすべきことをしたにすぎないからです。当然の事をしたに過ぎないのです。それは、自分の罪が赦される為だからです。 赦しは神がキリストにあって罪人に与えられるものであるから,キリストこそ罪の赦しの基礎です。赦しは,キリストの十字架の贖いのみわざのゆえに,悔い改めてイエス・キリストを神の御子と信じる罪人に与えられる恵みなのです。神は,悔い改める者の罪を赦してくださるあわれみ深い方です。罪は,その償いがなされないかぎり赦されません。イエス・キリストはその償いを私達、罪人に代って十字架に掛かってくださったのです。

13節に、試みに会わせないでとありますが、試みとはだれがどんな目的で与えるのでしょうか。「試み」とは、聖書的には「試練」とか「艱難」とか「誘惑」などが考えられますが、これらは悪魔から来るものです。

悪魔は神の民に神の御旨を疑わせたり、恐れさせたり、罪を犯させたりして、信仰から離れてしまうように,巧妙に「誘惑する」のです。それゆえ、悪魔は「試みる者(誘惑者)」とも呼ばれています。

このように,聖書における「試み」は「苦難による試練」を意味します。その出所は悪魔からです。出所は悪魔ですが、時々、神が許す場合があります。いずれにせよ試みは,神の民を信仰か不信仰か,善か悪かの新たな決断に直面させるものでありますが,罪や不信仰へ誘惑する試みは明らかに悪魔からのものと言えます。しかし,悪魔は神の敵ではあるが神の許可なしに働くことはできず,結局は神御自身が悪魔を道具として用いて、その民やしもべを訓練しようと試みるのです。試みにあうことは罪では有りません。キリスト御自身も試みにあわれました。悪魔の誘惑を受けて,それに負けてしまうことが罪となるのです。ですから,キリストは弟子たちに信仰に固く立っていなさい、と教えられました。しかし神様は私達を愛していて下さっています。ただ試練にだけ会わせる方ではありません。

神様はけして耐えられない様な試練は用意していません。私達が試練を通して成長する為に神が許された試練です。試練は、私達にとって、かえって祝福となります。

*「ヤコブ 1:2 私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。」

試練を喜びとして受け止めた瞬間に試練では無くなります。神は私達に必要な試練を用意しています。神のなさる事に何一つ無駄な事はありません。」

この御言葉を見る時、試練は喜びであり、私達に必要な恵みなのだと言う事がわかります。神様は私達を愛して下さり成長させようと喜びの試練を用意しておられます。

14節、15節に罪赦される為の条件が書かれています。私達がよく耳にする言葉に「無条件の罪の赦し、ただ信じるだけであなたの罪は赦されるのです。」と言う言葉を私達は信じて来ました。しかし、この御言葉から罪赦される為には、一つ条件が有る事がわかります。それは、人の罪を赦す事です。

14節にある様に、「人の罪を赦すなら、天の父も私達の罪を赦してくださいます。」

また、15節にある様に「人を赦さないなら、天の父も私達の罪をお赦しになりません。」と言う事です。

イエス様はほかの個所でも、赦す事について、教えています。御言葉から見ていきたいと思います。

*「マタ 18:35 あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」

天の父もあなた方にこの様になさるとは、人の罪を赦さなければ、あなたの罪も赦しませんと言う事です。また、ここには、「心から兄弟を赦さないなら」、と有ります。口先だけの赦しではだめですと言っています。ではどの様な赦しが神の御心にかなう赦し方でしょうか?

アメリカ合衆国のペンシルベニア州にカナダから移住してきたドイツ系のひと達の村が有ります。みなさんも知っていると思いましけれどアーミッシュの人達です。電気や車などに頼らず昔ながらの自給事足の生活をしているクリスチャン達の村に事件が起こりました。

「2006年10月、ランカスター郡の小学校に「神を憎む」という男性が乱入し、児童や教員を銃で殺傷する事件が発生しました、13歳のアーミッシュの少女が自分より小さな妹に銃口が向けられた際、身代わりとなって射殺され、その妹も銃撃されました。その後、彼らの祖父は犯人に恨みを抱いていないことを表明しました。アーミッシュの人々は、事件後、容疑者は、自殺しましたが容疑者の妻や3人の子供を気遣い、抱擁し、亡くなった子供たちの葬儀にも招いたそうです。

本当の神が望む赦しがここに有ります。

「Ⅱコリ 2:7 あなたがたは、むしろ、その人を赦し、慰めてあげなさい。そうしないと、その人はあまりにも深い悲しみに押しつぶされてしまうかもしれません。」

私達は相手を赦すだけでなく、慰めてあげなさいと言っています。実に厳しい言葉です。自分を傷つけた相手に対して慰めの言葉をかけれるでしょうか?

大変な事です、身を切る思いになるかも知れません。

しかし、ここで私達は、私達の罪を赦すためにイエス様がどんな事をして下さったか、考えてみてください。身を切るどころか私達の罪を贖う為に、命を捨てて下さったのです。このキリストの愛に応えるため私達は、赦しと慰めを持ってイエス・キリストの愛にこたえていく信仰生活を歩む事を学びました。

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