【聖書箇所】
ユダ1:3 愛する人々。私はあなたがたに、私たちがともに受けている救いについて手紙を書こうとして、あらゆる努力をしていましたが、聖徒にひとたび伝えられた信仰のために戦うよう、あなたがたに勧める手紙を書く必要が生じました。
1:4 というのは、ある人々が、ひそかに忍び込んで来たからです。彼らは、このようなさばきに会うと昔から前もってしるされている人々で、不敬虔な者であり、私たちの神の恵みを放縦に変えて、私たちの唯一の支配者であり主であるイエス・キリストを否定する人たちです。
1:5 あなたがたは、すべてのことをすっかり知っているにしても、私はあなたがたに思い出させたいことがあるのです。それは主が、民をエジプトの地から救い出し、次に、信じない人々を滅ぼされたということです。
1:6 また、主は、自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる日のさばきのために、永遠の束縛をもって、暗やみの下に閉じ込められました。
1:7 また、ソドム、ゴモラおよび周囲の町々も彼らと同じように、好色にふけり、不自然な肉欲を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受けて、みせしめにされています。
1:8 それなのに、この人たちもまた同じように、夢見る者であり、肉体を汚し、権威ある者を軽んじ、栄えある者をそしっています。
1:9 御使いのかしらミカエルは、モーセのからだについて、悪魔と論じ、言い争ったとき、あえて相手をののしり、さばくようなことはせず、「主があなたを戒めてくださるように」と言いました。
1:10 しかし、この人たちは、自分には理解もできないことをそしり、わきまえのない動物のように、本能によって知るような事がらの中で滅びるのです。
【抜粋】
私達は良く失敗します。これは普通の事です。辞書には失敗とは「しくじった事」と「やってみたが、うまくいかなかった事」と有りました。うまくいかなかった事はだれにでもあります。失敗しない人はいないのです。失敗には、小さな失敗と取り返しのつかない大きな失敗が有ります。取り返しのつかない大きな失敗をしてしまった時人生が大きく変わったり、自殺を考えたりします。この様な大きな失敗をしない為にはいったいどうしたら良いのでしょうか?いろんな事に気を付けて慎重に生活していれば良いでしょうか?それも少しは益になるでしょう。しかしそうではありません。取り返しのつかない大きな失敗をしない為には、小さな失敗を益とすることです。失敗しない人はいません。人間は失敗しながら成長して行きます。小さな失敗を失敗のままにしておかない事です。なぜ失敗したのか、どの様にしたら失敗しないだろうか、失敗の原因はどこにあるのだろうか、次に失敗しない様に失敗を次に生かす事が失敗を少なくし、取り返しのつかない大きな失敗を避ける事が出来るのです。小さな失敗を益とする事、小さな失敗から学ぶ事、それからもうひとつ大切な事が有ります。これは今日聖書から学ぶ事ですが、他の人の失敗から学ぶ事これが一番大事な事です。
ヤコブの兄弟ユダが教会に入り込む異端の教えに惑わされない様に教えています。そして、自分達が教えられた信仰を堅く守る様にという内容のでした。滅びる者のひな型をあげて滅びる者にならない様にと言う警告を発しています。ある人々が、ひそかに忍び込んで来て私たちの神の恵みを放縦に変えて、私たちの唯一の支配者であり主であるイエス・キリストを否定するのです。私たちの神の恵みを放縦に変えて、と有りますが、少しわかりづらいので、噛み砕いて説明しますと、放縦とは気ままにと言う意味でここの場合、私たちの神の教えを勝手気ままに変えてと、読むと分かりやすいと思います。
4節で言うと、 「というのは、ある人々が、ひそかに忍び込んで来たからです。彼らは、このようなさばきに会うと昔から前もってしるされている人々で、不敬虔な者であり、私たちの神の教えを勝手気ままに変えて、私たちの唯一の支配者であり主であるイエス・キリストを否定する人たちです。」
と読むと分かりやすいと思います。彼らは道徳的に放縦な信仰生活をしていたので、ユダは教会の聖徒にひとたび伝えられた信仰のために戦うよう、に勧める手紙を書く必要が生じました。と言っています。
彼らは道徳的に勝手気ままな生活をして、聖書の教えから外れた生活を正当化していたと言う事です。この様な人たちがどの様になるかを聖書は教えています。
5節にイスラエルの民が出て来ます。イスラエルの民は神様の愛と慈愛によってエジプトの地から、救い出され神に感謝し、賛美しました。しかしやがて神に、感謝し賛美した口から、不平不満が出て来る様になり、イスラエルの民は神に背き不品行や偶像を拝む様な勝手気ままな生活をする様になって滅ぼされました。
次に、6節に御使い達が出て来ます。御使いは自分の立場を考えず、神に背いて神に反抗した御使いは大いなる日のさばきのために、永遠の束縛をもって、暗やみの下に閉じ込められました。ただ滅びの日を待つ者となったのです。
次に、7節にソドムとゴモラおよび周辺の町々が出て来ます。ソドム、ゴモラおよび周囲の町々も彼らと同じように、好色にふけり、不自然な肉欲を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受けて、みせしめにされています。みせしめにされています。ここで、出て来る「永遠の火の刑罰」とは、燃える火の池ゲヘナに投げ込まれると言う事です。また、「みせしめにされています」とは現代の私達に対する滅びの見せしめでありひな型です。旧約の滅びる者のひな型がここに示されています。
8節の「それなのに」とは旧約の時代の見せしめやひな型が示されているにもかかわらずこの人たちもまた同じように、夢見る者であり、肉体を汚し、権威ある者を軽んじ、栄えある者をそしっています。とユダは言っています。
簡単に表現すると神様に背いていると言っています。
9節に「モーセのからだについて,悪魔と論じ、言い争ったとき」とありますが.これは偽典の「モーセの昇天」の中に記されていることで,偽典とは、正式に認められていない文献の事を偽典と言います。その偽典の中には、モーセが死んだ時,ミカエルはそのからだを埋葬するように神から遣わされましたが,悪魔はモーセの殺人罪を言い立てて、彼の死体を自分に引き渡すように主張し,激しい論争を引き起したというものでその時、ミカエルはあえて相手をののしり、さばくようなことはせず、「主があなたを戒めてくださるように」と言いました。この行動が神に従う行いです。
しかし、この人たちは、自分には理解もできないことをそしり、わきまえのない動物のように、本能によって知るような事がらの中で滅びるのです。
この行動は神に背く行いで、失敗の例で今の時代のひな型です。この人達が新約の滅びる者のひな型なのです。
聖書の中に数々の失敗例が出て来ます。特に、イスラエルの民の失敗の例がたくさん出てきます。私達はその失敗を今の時代のひな型として聖書の中の失敗から多くのものを学ぶ事が私達の成長につながります。聖書の失敗から多くを学び失敗を益とする信仰生活送り日々成長し、キリストの似姿えと変えられて行く事を学びました。